駄文の溜まり場

最近なんでもすぐ忘れるので

二度と聴かない歌を頭の中で巻き戻して聴くこと

 

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映画は一過性のものだというような意見を見てしまい、つらい気分にもなった。

なぜなら、自分にとって映画や、特撮や、アニメを観ることはただ流れて最後まで観る行為ではないし、そうではないことにとてもありがたさを感じているからです。

要は、自分が覚えていたいことを強く覚えておけることができるから好きなんです。そして、他の人と同じものを見ても自分がそれをよく覚えていればその時間はワンカットだとしてもとても長く、自分の中に強く帯びることこそ私が大事にしている感覚なのです。

映画は特に、その感覚を繰り返させる為の装置だとすら思っています。

だから、映画は最初から最後までただ時間が流れるものではない。それは何度も自分の中で止められ、時に引き伸ばされ、時間という等しいはずの認識を双方で歪め合うことでしか成立しない装置であるから。

せめて、全ての創作にはそのやりとりが行われていて欲しいし、そうでなくてもお互いがお互いの認識を持っていて欲しい。

 

わたしたちは、何かを新しく認識する時、必ず何かを思い出しながら認識しているように思う。もし、どうしようもなく、考えてもわからず、自分ではもう考えられなくなっても、忘れようとしても、自分が何かを得ていく過程の中でそれは何度も上書きされ、過去の事象は新たなものになっていってしまうんだと思う。忘れると覚えているは、常に一緒でないと成り立たない。だから苦しい。

目の前のそれは、常に自分のなかの過去を帯びたものとして目の前に現れる。だから、同じ顔がちがって見える。自分が思っている以上に、いろんな事は忘れていい。覚えていなくてもいい。新しく何かを得ていく過程でも、思い出すことは絶対に避けられないことであるなら。

 

いろんな人と、もう二度と会わない。会わないけど、自分はその時笑ってた人の顔を知っていて、これから何かを得ていくときもそれを連れていっている。ので、ただその顔をわたしは見れたことを、うれしく思うことしか幸せになれない。ので、悲しくなってしまったとされる人生も、人も、結果も、出来事も、わたしはただわたしだけの記憶で留めておいたまま、ですね。

ひとの人生も、一過性ではない。認識とは、そうではない。ひとつだけ幸せな出来事があったなら、その人は幸せでいいはず。新たな認識と、記憶を掘り起こす行為は常に一緒だといったけど、そうではない、そのどちらでもないその人の絶対の一瞬が、時間のなかにあるんじゃないかとたまに映画を観ていて思うけど、それすらも忘れてしまう。それが名残惜しくて、また映画をみたりする。つかれてきたけど、文章も書けた。ので、もう少し頑張りたいなと思った。