世の中のことでどうしても死ぬことについて考えることが増える。有名人の自殺で会うひと会うひとが、あの人死んじゃったねというし、SNSには信じられないと書きながらもすぐに思い出話とエピソードを添えてばらまくのも絶えない。良し悪し問わず、死が晒されるものになりすぎてるのはわたしには合わないと思う。
感染症でも経済破綻でも人の言葉でも孤独でも人は死んでしまうことが、立体を帯びて可視化されている。わたし自身見方が変わっている。
みんな多かれ少なかれ、自分の行動でひとの生き死にを左右してる。それが夜の街とかで線引きされて、垣根を社会が設けるのは恐ろしいことだと思う。
自分が世界を見るとき、どれだけ正常でいられるかが試されてるような気もする。でも、ひとと話してるとやっぱり楽しくてそんな緊張感はなくなったりもする。
CMで大貫妙子の「a life」が流れるとハッとさせられる。
最近あったよいことは、ずっと好きだった作家フェリーニについて向き合う機会が設けられたことです。
自分にとってフェリーニの作品と出会えたことは、最も幸福なことの一つだなと改めて実感しました。
ずっと大好きでい続けて、わたしは好きなことを自分の手足や知識として自己紹介やアイデンティティにしてしまうことを嫌がり敬遠してきましたが、突き詰めると何かを好きになることは自己をすり減らす行為に他ならず、作品などを鏡として自己をうつし、認識していく行為なのだと気づきました。
フェリーニの映画を観ていると、普段自分が認識しているものの曖昧さに気づきます。
どれだけ正しく、人やものや過去や記憶や音のもつ本質を日々受け入れているのか、そもそもそんなことができているのか、問いかけられているように感じます。
そしてそれらが本当の意味で自分と重なり、認識することは一生であまりないことなのかもしれません。フェリーニの作品のどれにもラストシーンに忘れ難い感動があるのは、その一生であまりないことを表現するための映画であるからではないかと思いました。
それは悲しいことの果てか、自暴自棄の果てなのか、様々です。どの果てにその世界と自分が重なり合うのかはその人の人生それぞれで、映画のなかで全ては肯定され、意味のあるものへと昇華される賛歌であることを示してくれます。
それは優しさの目線に満ちていて、映画はただ美しく、観る側はそういったとても大きな存在と光の中では身を委ねるだけで良く、こんなに幸福なことはない体験だなと思います。
好きな色が気づいたら変わりつつあります。最近はみどりが好きです。
無意識のなかで繰り返された選択がわたしを変えてるのかもしれないです。結果がでたときには、なんでそうなったのかよくわからないことばかりです。
でも、わたしはこういう選択をしたからこういう自己を持っていると語れるひとは、そんなに自分のことをカテゴライズしてしまうことに危うさはないのかなと思いますし苦手です。
フェリーニの映画に触れて、認識すら揺らぐことは心地悪くもありますがわたしの世界の見方を手助けしてくれているので、やっぱりありがたいなと思います。