駄文の溜まり場

最近なんでもすぐ忘れるので

台湾

 

 

台湾が好きで行きたくなりパスポートを取り直した。

台湾が好きなのはご飯が美味しいことと亜熱帯の街並みや鮮やかな花が綺麗なところ、映画が好きなところなどたくさんある。

海外で一番好きなのが台湾で、好きなのは台湾に行くのが楽しいからという理由で政治的な意味ではない。

 

侯孝賢の「悲情城市」という映画にでてくるトニーレオンが演じる聾唖者の役を思い出す。

この映画自体が指折り好きだけれどトニーレオンの出演歴のなかでも、異色ではある。

侯孝賢はこの作品以外には史実をなぞるような映画は撮ってはいない。

 

台湾の歴史を知ることにおいても大事な映画ではあるけれど、この映画には史実や事件、虐殺や悲劇が流れる展開とは別に、それすらも無常に包みこむような時間の流れや、台湾が持っている自然の風景というものが常に共に在るというようなことを示す映画というか撮り方だなと思い、自分はそこに対してこんなに秀でた映画は他にはないと思っている。

実際にこの映画では台湾の自然の風景が突然映されるカットが何個か存在して、それ自体が底知れない死と繋がっているような禍々しさがある。

 

トニーレオンが演じる主人公が聾唖者であることはいろんなエピソードがありインタビューで説明もされているけれど、彼が観ている世界は抗えない現実とそうでなくとも変わらず存在する風景(私たちが今、過ごしているような虐殺のない世界にも同じ風景が存在する)を観る者であること、どちらの旋律も聞き取る中間地に位置する者であるからだと自分は勝手に解釈している。

 

揺れる社会情勢における身体障害者といえば、「暗殺の森」にでてくる主人公の友人も盲目である。今話している台湾とは遠く離れたヨーロッパの第二次世界大戦の話ではあるけれど、描いてることでいえば近い作品だとは思う。

「君の言葉で世界を説明されていると、まるで僕にも目が見えているようだ」

と語る友人を最後にファシストである主人公は裏切ってしまう痛々しいシークエンスがある。本来は繊細な言語能力を持ち得る主人公がファシズムに傾倒し一元化していく(彼はファシスト同士で同じ帽子を被り、同じ歩幅で、等間隔な機械的な足音を立てながら歩くようになっていく)ために繊細さを捨てようとする、それでも捨てることはできないという人間らしさには唯一の希望がある。

戦争を体験していない自分も、彼の苦しみだけはなんだかわかるような気がしていた。

 

なぜ、彼らのような世界の一部を感じる能力が欠如した人物が配置されるのかということを考えると、それは決して欠如ではないからであるということに辿り着く。

彼らは音がない、風景がない、というその「ない」ということも包括し完成を遂げた世界を生きている。

「ない」ということで完成される世界というものについては、どの時代でも普遍であるように思う。

それは前述したような情勢が荒れて人々が殺し合うようなことになっていたとしても同じように在る台湾の風景のように、どの時代にも彼らのように世界を受け取り、生きてきた人々はいる。

悲情城市」においてはカメラという装置(撮影ではなく、映画内にでてかるカメラ)が死の装置として機能している。

カメラマンとして仕事をしていた主人公が、撮られる側になり彼の映る写真が生まれた途端にその写真を背景に

「かれは勾留され、戻って来ませんでした」

というようなナレーションが流れる。

撮る側が撮られる側になった途端、死を遂げる。

突飛な解釈ではあるけれど、時々映される無常を体現したような台湾の風景は死の装置としてのカメラがずっと観ていた目線であるような、そんなことを思わされた。

何かを見つめ、ただそれを、流れることを見つめることは死や諦めへの誘いであるというような。

星野源の桜ノ森を聴いていると同じようなことを思う)

 

 

台湾に旅行した際に「悲情城市」の題材である二二八事件の和平公園に行った。

そこでは虐殺が行われていたことが信じられないように、遊具がありこどもが遊んでいた。

緑が整えられ、美しい公園になっていた。そこで1時間くらい、日本でいつも会っている友人と日本で過ごすのと変わらないように会話をしていた。

この嘘のように穏やかな景色こそ、トニーレオンが演じていた聾唖者の彼が本来見るべき景色であったのだろうと、何となく思いながら全てが穏やかな時間を過ごしていた。