渋谷でジャックリヴェット、アケルマン、ロメールの特集が組まれている。
わたしは足繁く、ほとんどノルマをこなす為とでもいうように仕事終わりとかにどうにか時間をつくりそれに通っている。
誰かにとっては5月が5月としての意味しか持たない。けれどわたしにはこの作品群と季節を過ごせる悦びに満ちている。
映画を見に行ってしまうのは自分にとっては趣味といいつつも半強制的なルーティンとなってしまっていて、無理をしてでも見てしまう。
高校生の時に映画を見るようになってから見続けて、それはあまりにも自分のなかて長く続いてしまったせいで自分の生活と映画とをお互いに映しあっていく意外の生き方がわからなくなってしまっている。
或いはそれ以外を拒否しようとしている。
リヴェットはただよくわからなくて、小さい頃に映像やアニメを見ていても話がよくわからないのにただ見ていてなんだか楽しい時の感覚を思い出した気がした。
アケルマンは苦手な監督であるイメージがあったんだけど、他の作品を見たら偉大な作家だということを思い知らされた。
映画は動く写真の連続で、美術館で写真を見ながら歩く時のような、何かを見て思いを馳せて解釈しそれが終わったら次の作品へと足を運ぶこととあまり変わりがない。
その歩く速度が映画にとっての編集であり時間の操作となっているけれど、その歩行を映画に委ねていられる時間がわたしはたまらなく好きで、ただそれさえ味わえればいいという思いすらある。
アケルマンの作品は流れるように進む。ただ心地よく、流れていく。
見ている途中に何か聞きたい音楽を一瞬ふと思い出したけれど、映画が終わったらそれが何か忘れてしまった。
映画の本編に集中しろよ、という感じではあるんですが
何もない5月だったとしたらこういう感覚ってあっただろうかって考えると、映画はやはり素晴らしい。映画を観ることは素晴らしいと何度でも再認識させられる。
もう一度見たいとすぐ思ってしまう。こうして作品を見た後の高揚感を何度でも味わいたくなる。見返したいと思っていても見返してないまま断片すらなくなってしまう映画が何本もある。見たことすら忘れてしまう映画が何本もある。
そのゴミのように溜まってしまったものの上で何か新しいものを受け入れることでしか生まれない輝きは、確かにある。