トーマスが始まる時のナレーション
他人の楽しそうな姿が毒にしかならない時期がある。他人の不幸を願っているわけではないのにどうしたってそうなる。
酸欠でプールの後の授業の時の穏やかな疲れのような状態がずっと続いている。しかもそれは寝ようとも眠れないことも伴っている。
フィジカルがとてもよくない状態が続いている。
そういう時、ひとは色んなことを思い出すんだということを知った。
それと同時に、普段どれだけ思い出さないようにしているかを自覚した。
自分が普段こなしている労働や、駅まで歩くとか、そういったルーティンはなにかを封じ込めていてくれるものなんだということがわかつた。それは社会の一部に自分がなっている際の行為ともいえる。
誰かと関わることに、自分自身では大丈夫と言い聞かせながらある程度忙しくすることで考えないように、思い出さないようにして自我を保っていたんだな〜ととても納得した。
そういう鎧がなくなった時、自分はとても脆いなと思った。こんなに自分のことを考えて、どういう人間なのか知ることは一度もなかったように思う。
考えた時にそういうことができないでいたことをどうしようもなく虚しいなと思った。
思いやりであれ、優しさであれ、他者を思うことでないがしろになってしまうと自分自身は枝だけのような状態に気づかないうちになってしまうんだなということを知った。
予期しない、計画にないことから伴う苦しさみたいなものが突然現れて自分が揺らいでしまうことも、それでしか揺るがない自分に対しても生きていくとはなんだか恐ろしいな〜と思ってしまう。
自分が過ごしてきたあらゆる他者との時間は、自分自身を考えない為でしかなかったのかもしれないと思ってしまった。それは他人の不幸で泣けないことよりも一番悲しいことに思えた。
それでも自分のことを考えないことほど楽なことはなくて、そういう苦しみから逃れる理由にしていただけなんだなとも気づいた。
他人の信用とか、この人といると楽しい!みたいなことをSNSでとてもよく見かける。
本音で話せるっていうのが相手を信頼することらしいけど、自分は本音で話すのは地獄でしかないように思う。
自分が語る自分自身を伝える行為に、信頼を置くこと、それが重要だということは求めないでほしいし求めたくない。
それが大事なことだとしたらこわくて生きていけないし楽しい人が自分を追い詰めているように思えてこわくて仕方なくて、虚無的に他者と関わることが依存症になってしまう。
生きていくには、自分自身を見過ぎないように気休めに人を見ることでしかないと思う。
それでも誰かの言葉を聞きたいのは、決定的な出来事や、自分の核まで入り込んでしまい切り離せないものの普遍性がその人といることで意味が変容していく、させていく為でしかないなと。
自分から離れるために、色んな見方をできるようになるために、お互いにただ悲しさを見つめる時にちがう場所から見れるように、一時的であったとしてもそうなるようにということが救いになるような関係でいれますように。
繰り返し言うと、自分を見すぎる行為は破滅なので、それを誘発することで関係性を築く(本音で語り合える親友!)ことに癒しはないと思う。苦しくないように、生きていくようにしましょう。
東城綾が苦しいのは、自分自身を見すぎているからだと思うと涙が止まらなかった。
彼女は自分の本音を言うときに、いつも顔を隠してしまう。きっと、顔を見せると自分自身を見せすぎて苦しくなるからなんだろうなとなんとなく思った。
でも抑え込んだそれこそが作品になり、言葉になり、悲しみをちがう場所から見れるようになることに繋がる。
わたしも自分を苦しめずに生きていきたい。