今週はフェリーニが劇場で観れる機会が重なり、「アマルコルド」「甘い生活」を劇場で見ることができた。
アマルコルドは状態の良くないLDで一度見たことがあって、甘い生活は初めてでした。わたしはフェリーニ好きを公言してるんですが見てませんでした。
「アマルコルド」は日常と祭り(非日常)、記憶と妄想が並列されるフェリーニの映画の構造に沿ったものであることは他作品と変わらないけれど終始優しさに溢れる映画だった。
画面の色使いもどこか柔らかく暖かみがあって。
どのエピソードもフェリーニらしさが存分に味わえる映像への署名を軽妙にすることで「アマルコルド」全体のものとして映る。
季節は変わり、あったものはなくなっていき、フェリーニは少年から大人になる。教室でのバカバカしいいたずら、グラマーな女とのエッチな妄想、歴史のなかのナチのひどい行い、そして母親の死という終点さえもそれらの循環のなかの一部としかならない。どれにも価値はあって、ない。記憶として、同じだけの価値ってこと。日常も祭りや非日常、雪が降った日、降らない日。日常や労働は祭りへの通過儀礼ではなく全ては同じ。実はどちらも変わらない。
わたしたちは自覚する以上に自然や歴史の循環の一部であり、流れのなかで生きている。そしていつか死ぬ。綿毛が舞うこと、雪が降ることとなんら変わらない比重で死んでいく。過ぎ去っていく。循環には逆らえずに。
「アマルコルド」は通過と流動と、戻れないことについてことのフェリーニのアンサーだと思う。それらを思い出して、映画にしていくことの優しさ。人間って、なんやかんやいいな!ってこと。生きるって簡単なことなんだって開き直れる一瞬がフェリーニの作品には確かにある。「人生は祭りだ」っていうし。
「甘い生活」での映画体験は、やっぱり生涯つきまといそうで嫌になった。フェリーニは大好きだけど自分にとって、しんどい監督でもある。
ラストで確かに少女と目が合う。カメラを見てる。それはわたしたち観客を見てるってことで。このときの感覚が、わたしにとって初めての感覚だった。こういうの嫌だからこわくて見なかったのに!!!!!
このとても長い映画には2つのまなざししかでてこない。ラストのこの少女のまなざしと、死んだ怪魚の暗いまなざし。対比すること2つに群がる遊び呆けるパーリーピーポーな主人公たち。どちらとも目があわず、見ようとしない。何かを見るときはパパラッチとしての第3の目であるカメラをその時その時の目立つ出来事やモノ・ヒトへ向ける時だけ。
みんなか何かを見ることを恐れている。考えることはまず、見ることから始まる。だけれど、誰も目を合わせようとはしない。この映画の視点も主人公に寄り添ってはおらず第三者からの冷徹なまなざししかない。
夜になると素直に、無邪気にもなれるのに朝には現実が待っている。その繰り返し。婚約者を裏切り、真剣になることができない浮ついた主人公は居場所がない。そういう人間がより付くのが空虚な祭りであり朝になれば終わる。
この映画で印象的な光を帯びた昼のシーンにでてくるのがラストの少女と出会うシーンであり、主人公もどこか心が柔らかくなっている。この時に、やり直すことはできたかもしれない。でも、ラストでさえも少女の声は届かず空虚な祭りの繰り返しに戻っていってしまう。
わたしたちはどうなんだろう。この映画の最後の瞬間に、少女はわたしたちを見る。どうすればいいのか、どうやって生きていけばいいのかも教えてくれないのにこの映画は終わって少女のまなざしだけが頭にこびりついて残る。
けれどわたしが間違いをするときには、きっとこの少女のまなざしに気づく。
長すぎる映画は最後の一瞬のためにある。あーやばい映画だった。うわーつらいつらい。