時間があるから読んでなかった本を読みたいなと思って読んでる。
まだまだゆっくり映画見たり、いろんなことを知りたくてこんな生活してるのに気づいたら卒業して一年間も経ってた。
みんな働いてる。えらい。
まだまだ自分の知識は少ないし、もっとこの先の生活を楽しむためには不完全な気がして、それがもどかしいのについ遊んじゃうので一年間あっという間でした。
つらい世間だけど、不安が移行しただけ。元からあった問題が、虐げられてるひとにしか見えてなかったのが多くの人に見えるようになっただけなのかもしれない。
ほぼ躁鬱なくらいの情緒不安定さと永遠に付き合ってきてる自分が、この時期あまりやんでない。むしろ穏やかなのかもしれない。
一度もあり得ないくらいイライラしたり悲しくなったりしてない。
遠くで暮らす人が心配なのも、友達が愛しいのもいつまでも安寧でいてほしいのもいつもと変わらないのかもしれないです。
そんなわけでスーザンソンタグの『わたしは生まれなおしている』を読んでます。
スーザンソンタグさんの日記を死後公表したものです。
知識を得ることに慎重だったこと、書くことと同じくらい大事にされる身体の感覚、生きることの感覚。
ソンタグの文章は、わたしばかだから理解できないけど本当に読みやすい。言葉の先にある、観念的なもので文章を結ぼうとする様が好き。
それとの共振にこそ、筆者と読者の交わりがあるような気がして読書体験として美しいなと思う。
大学生のときに読んで感動した。だから、読んだ後は内容はもうほとんど忘れてるんですが体験として残る。
わたしは知識を得るには頭が悪すぎるとつくづく思う。でも、溜め込む以上に忘れてしまいたい欲もある。
最近も知識をたくさん持ってる人の文章を読んだ。書き方こそちゃんとしてて、悲しい、疲れた、暑い、甘い、とかそういう単語を言い換える術こそ知っていれど、それはおもしろいものではなかった。
なんか、花束をもらうのにAmazonの配達で受け取るみたいな。
花束が美しい感情だとして、その人が書いた文章はAmazonの配達の一連の作業でしかない。
わかりにくい例えだ。
どんな形であれ、ちゃんと受け取りたい。のにそれを避けるように知識で掘り固められたそれはとてもつまんなかった。
文字だけだと誤魔化しが効く中で、その人が話すように、顔の形を変えるように紡がれた文字を読みたい。
結局、書くというのはとても神聖な行為なんだと思う。知識じゃ書けない。知識がなくても、自分の感情を伝えようとするときに湧き出る言葉が有るひとがいる。
才能ではない、どれだけ真摯に向き合っているかの問題。
ソンタグは真摯に向き合ってる作家だと思う。だからおもろい。
とにかく、知識で書かれたひとの文章がとても滑稽で嫌だった。最近の嫌な出来事。
中卒ホストのブログの方が、ソンタグの文章に触れるみたいな神聖さを感じた。とてもだいじなことのように思った。
その神聖さに出会うために、文章を読んでいたいんです。みんなブログ書いてほし