ただの思い出
久しぶりにピアノを弾いた。幼稚園の二年生?みたいな年齢のころから中学生になり始めくらいまで習ってて冬には毎年発表会に出てた。
おばあちゃんが、ありえない量の花束をいつもくれた。家で渡せるのに、会場でくれた。みんな花束をもらうのだけれど、わたしだけありえない程の量の花束をもらっていた。
うちのおばあちゃん(おばあちゃんと呼んだことはない。別の名前で呼んでいた)は花と派手なことが好きなひとだった。
家に帰ると、花束を入れるための花瓶がたくさんあって家中が花だらけだった。
一月くらいにおばあちゃんの誕生日があって、恋人から歳の数だけ薔薇の花束が届いていた。
全部赤い薔薇の花束だった。すごく大きくて、ずっと枯れないような花束だった。
小さい頃に何回か会ったおばあちゃんの恋人はたぶん社長で、昔のハリウッド映画にでてきそうなひとだった。
その人から届くカヌレとアップルパイをわたしは食べ慣れている。
おばあちゃんが老人ホームに入居してからも、変わらず花束は届いた。
記憶も淀みはじめてることも知ってて、何年も会っていなくても一月になると花束は届いた。
おばあちゃんは、亡くなる直前に家系ラーメンが食べたいとずっと言ってた。
家系ラーメンのおいしさはすごいのだ。たしかにわたしも死ぬ前に食べたい。
おばあちゃんの恋人は葬式にはこないと言ってたけれど、結局きてくれた。
『◯◯(祖母の名前)さんを綺麗な姿のまま記憶に留めておきたい』
と言っていたらしい。なんて素敵なんだろう。でも、結局きてくれた。
目を閉じてから、お化粧したおばあちゃんの顔は本当に綺麗だった。
老人ホームにいるときはお化粧もできなくて、馴染んだ姿からどんどん変わっていくのを見るのがつらかったから、最後に綺麗な姿を見れて満足できた。
ピアノを弾いていた頃は、おばあちゃんと過ごしてた頃とも重なる。
おばあちゃんの命日に近い日にピアノを久しぶりに弾いたことが重なり、当時の情景や音や質感以上の、もっと形のないなにかを思い出した。
カネコアヤノさんの歌で、"行き場のない花束のため花瓶を買いに行く"という歌詞があるけれど、うちには行き場のない花瓶がたくさんある。
その花瓶が花で埋まることは、たぶんもうない。