駄文の溜まり場

最近なんでもすぐ忘れるので

僕らはもっと繊細だった

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 リー・キットの『僕らはもっと繊細だった』っていう展示を原美術館まで見てきました。

原美術館、自宅に似てるところがあって住みたくなった。うちもカーテンじゃなくたなローリングスクリーンだし。

 

わたし細かいことよくわからないので…。

でも感じたことは、なんだかフィルムの中にいるみたいな展示でした。

終始暖かい光がある。フィルムもアナログだけど、アナログに対する暖かみというか。

粒子としての光を感じさせようとしてるのをすごく感じた。

デジタルの光が0か1でしかないのに対して、フィルムの光には境界がないから全体として捉えることができる。その決定的な違いは、技術が発達してもどうにもならないもんだと思う。

わたしはフィルム至上主義でもアナログ至上主義でもないんで、デジタルでどうにかなるもんは技術に頼って使えばええやんと思っているんですが、やっぱりアナログでしか出せないものもあることは自覚してるつもりです。

時代遅れだけど、フィルムに触れるのはその自覚を得ることの1つだと思う。コストがかかってもずっとなくならないでほしい。

 

でも、今回の展示はプロジェクターで映写されたものだし窓から刺す自然光はスクリーンで遮られてもいる。懐かしさを表すものと、それを冷静にさせるものが同居しているのをすごく感じた。飛躍するけれど、過去の自分・記憶と現在を同居させているようにも見えた。

アナログのもつものにあえて違うものを混ぜる感じ。全体として捉えるものを提示しておきながら独立したものとしての扇風機の風を与えたり。

現代を生きる感覚として、アナログ・デジタルだとかをわけるというより、2つのなんとも言えない同居こそが現代なのかもしれない。どっちもあって、絶妙な関係性で関わりあってる。その間に自分がいる。それを感じた。というかずっとこの感覚を知ってはいたんだろうけど改めて気付かされた。

 

 

 

 

最後に、繊細さってことについて。わたしたちは記憶の引き出しを増やし続けていくんだと思います。全く関係のないものが何かを介すことですごく遠い場所、離れた時間だとしても繋がり合う。例えば今回の展示の光だとか、足の動きだとか。そんな他愛のないものが世界と個人を繋ぐ、過去の自分と現在の自分を繋ぐものだと思う。繊細さなんかなければ傷つかないだろうし正直めんどくさいけど、繊細になればそれが見える。

何かが欠けてると思うなら、大勢に囲まれてても満たされないならその引き出しを増やし続ければいい。いつでも助けてくれる。だからちゃんと生きてこうと思う。いろんなものを見て、感じて、世間と合わない感覚に出会っても押し込まずに大事にしたい。