こうやってみるとそんな見てないなぁ。クレしんユメミーワールド入れ忘れたけど訂正するのめんどくさいからそのままに。
でも、順位を付けるとか好きな映画10本選ぶとかやっぱ苦手。まぁ話のタネになるがよい〜〜🐰🐰🐰🐰
アピチャッポンの映画を観てきた。
精神と身体、現実と空想、フィクションであることとノンフィクションであること。その他にも対局だとみなされ別離されたものであるとされるものたち。
普段自分たちが言葉で区分し明確に別物であると考えているものの境界の狭間に立たされる感覚の心地悪さと不安を味わうことができた。
映画の中の主題としてそういうものを扱っていると同時に、それを映画と観客という三次元の領域でも両者にある境界というものを揺らそうとしてくる。ジェーンおばさんのそこらへんのおばさん感(おばさんと呼ばれるものの存在は違う国のおばさんでも身近に感じる。おばさんとは万国共通な安心感を持ったものを指すのかもしれない)や怪我をした主要の登場人物(能動性を制限されているという点では映画の観客と通じるものは大きい)やらなんやらの挙げてたらキリがないほどの不思議な意味を持ってそうな、はたまた持ってなさそうなモチーフのおかげでいつの間にか映画と一体にさせられてしまう。
この感覚はとっても気持ち悪いので是非見て欲しいなぁとしか言えないやぁぁ。
の映画見たよ
右に立ってるおじさん。
映画は1日3本までにしとかないとわけわかんなくなるからこれからはそうしよ
『チャイナゲイト』でいかにもな軽いチャイニーズ音楽がたくさん流れてて超あがった。すごいツボだった。最後の女の自爆はかっこよい。
感情の流れが早い(えーあんな憎み合ってたのに抱き合っちゃうのーうそーんみたいな)、盛り上げるところは壮大な音楽で思いっっっきり盛り上げる。やっぱ昔のハリウッド映画って見てて安心するしたのしー。
早稲田松竹さん3本で1100円はありがたいけどそんな安くて経営できるのか勝手に心配…。
つぶやこうとしてやめた!!!!!自分の価値観、感性と作品を交わせた上でおもしろかっただのつまんねーだの判断した意見なら全てに興味があるし、何よりも大事にするよ。
正しく映画をみなさいとか、そもそも正しい正しくないじゃないでしょう。
根本から分かり合えないから諦めるしかないゾ
気狂いピエロをもっかい観た。何年ぶりだろ。映画館で観れてよかった!
作品を通してむき出しになるゴダール自身の抱く観念を画面越しに共有した時にゴダールという作家のことが愛しくてたまらなくなる。そんでそれと同時に作家の味わった苦悩を追体験する。そうするとこっちまで切なくなっちゃってもうどうにもこうにもやりきれない…。ゴダールの作品を見てるとほんともう胸が苦しくなる。
愛して嫉妬して追っかけて追っかけられて突き放してくっ付いて。相反するモノに挟まれて混乱してみっともなくなり続けるのは人と関わる上で付き纏い続ける問題なんだろうな。
ゴダールの作ってくれたものは悲しい嬉しい好き嫌いとか、それらのどっちか!って断言できないような正体のない・実態の掴めない感情を抱える心地悪さを知るすべてのひとへの励ましなのかもしれない。少なくとも自分は励まされた。
ゴダールの分身をよく演じるベルモンドは弱くてださいけど、主役になりきれない人間は弱くてダサいことたくさんしなきゃかっこよくなんてなれないんだよな。負の要素を持ち合わせつつ、それがあるからこそかっこよくあるのは一番難しいのかもしれない。わたしもがんばろ。
海辺のカフカ長くって1,000ページも読んだんだ。お疲れ自分🍣
最近また活字を追ってることについて書いてる雑文なだけで、あまり海辺のカフカはわかりません。でもおもしろかった!最近他にも色々と読んでる。
映画が文字から生まれた抽象を見せつけるものなら、小説はその逆で抽象を文字に還元したものだと思う。映画も小説も好きだけれど、互いに得意不得意・向き不向きの特性がありどちらがいいだの悪いだのはないけれど、やっぱりその媒体でしかできない表現をすることに意義があるし、映画でできることは映画でやるべきだし小説でできることは小説でやればいいんだと思う。映画的表現とは何かということを考えるとき、同じ概念を表現したいとして小説で行う場合と映画で行う場合とアプローチにどう違いがでるかということについて考えると気づけることがあるなーって思ったりする🍣🍣
ちなみに海辺のカフカを読んでいるとき、映画を観ている時に抱く感情をこと細かに説明し直されているような気分になった。
映画から空間と距離や時間の経過を感じ取るのは簡単だと思う。映像という実体を持ってそれらを見せるのが映画の持つ強みであるし、それこそが映画の正体なのではと思う。偉そうに映画を語りたいわけではなく、映画って場所があってあー時間が流れてるなー。動いてるなー。っていうのをそのままに、切り取られて見せられる出来事(一言でいうならばフィクション)を摩擦を少なく見せられるのが強みだなってことを言いたいのです…。
逆に文字からだとそれらの実体としてあるものがすべて受け手の想像に託されるわけで。その想像し自分で構築して出来事を理解していく課程を楽しむことが小説の楽しみであるわけで。小説の方が映画よりも受け手がよっぽど能動的になることを必要とされる。だから本読む人は頭がいいんだろうね。すごい。映画は観てても頭よかならないから自分は頭が悪いんだろうなぁっていつも思う…。つらい。でも、やっぱりフィクションをなるべく受動として享受するのが自分は一番好きで心地いいんだろうなって思う。これはどっちが優れている表現かとかいう話ではなく、好みの問題だと思う。
ただ、自分は本を読むのが下手だなと思うのでうまいこと読めるようにコツがつかめるまで頑張ろうと思います。
自分の考えてることをわざわざこんな形にしているのって無駄な行為だなーって思うけど、やっぱり書くのも読むのも好きだから少しでも文字に関われることを仕事にできたらそれでもう幸せだなー。映像も勿論好きだからそっちも考えてるけど、さささささささやかな夢なんだ〜。おやすみ〜。