駄文の溜まり場

最近なんでもすぐ忘れるので

寺山修司について

 

 

 

寺山修司の全てを把握してるわけではないけど、寺山が好きだから寺山修司展に行ってきました。

 

寺山を知ったのは「田園に死す」で、見たときにフェリーニのパクりじゃん!って思った。

そこから寺山について調べるようになって、映画もいいし言葉もいいし演劇もなんだかおもしろいけど寺山修司という存在に惹かれているだけで、表現形式なんて大した問題じゃないように思えた。

寺山が他のどの演劇人とも異なった点は、現実と虚構の境界を見直すことに執念してたところで。(演劇はそんな詳しくないです…。)

現実は虚構のなかにあって、虚構には現実があるっていうのを繰り返し表現しようとして、そのなかで寺山が生涯抱えている孤独をその間のどこに置けばいいのかを彷徨い続けて答えを見つけ出すために作品を作っていたように思える。結局最後までそれは見つからなかったんだろうけど。

 

 

寺山は間違いなく生きてる間はどの時代でもその時代の主役だったと思う。わたしは60〜80年代を生きてないからその時代の空気感というのは寺山を通じて感じて、ボクシングだとか競馬だとかやさぐれたものにロマンチックさを見出してドラマになっていくことだとかにやたら惹かれてその時代に生まれたかったなって思う。あと、なにより勢いがあるのがいい。いろんなことに。

 

寺山は孤独のなかに社会のひみつがある、みたいなことを言っていて社会と孤立した個人という相反するものにお互いが内包されているっていうことを指摘している。

寺山が孤独を抱え続けた人間で当時は国内で正当な評価もなかったけれど、今を生きるわたしから見た時に寺山こそが主役であったんだなって感じてる。

孤独を抱えた人こそがいつだって主役なんだと思う。それは社会の中で唯一って事と同義だから。

社会は移り変わるけど、孤独は移り変わらなくて、思想や道徳はどんどん変わっていくけれど、孤独だけは普遍でどの時代のどの人にも変わらず感じられ続けるものなんだと思う。

だからこそ自分の孤独から生まれた作品は必要とされ続け、未来の孤独と共鳴し続けるんだと思う。そういう繋がりしか見出せないことが孤独の正体で、寺山の魅力はそこだなと思った。

わたしは寺山が今生きてないことが、すごく寂しい。