駄文の溜まり場

最近なんでもすぐ忘れるので

逃げるのは恥だが死ぬよりマシ

 

 

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つぶやこうとしてやめた!!!!!自分の価値観、感性と作品を交わせた上でおもしろかっただのつまんねーだの判断した意見なら全てに興味があるし、何よりも大事にするよ。

正しく映画をみなさいとか、そもそも正しい正しくないじゃないでしょう。

根本から分かり合えないから諦めるしかないゾ

 

 

 

ゴダール

 

 

気狂いピエロをもっかい観た。何年ぶりだろ。映画館で観れてよかった!

 

作品を通してむき出しになるゴダール自身の抱く観念を画面越しに共有した時にゴダールという作家のことが愛しくてたまらなくなる。そんでそれと同時に作家の味わった苦悩を追体験する。そうするとこっちまで切なくなっちゃってもうどうにもこうにもやりきれない…。ゴダールの作品を見てるとほんともう胸が苦しくなる。

愛して嫉妬して追っかけて追っかけられて突き放してくっ付いて。相反するモノに挟まれて混乱してみっともなくなり続けるのは人と関わる上で付き纏い続ける問題なんだろうな。

ゴダールの作ってくれたものは悲しい嬉しい好き嫌いとか、それらのどっちか!って断言できないような正体のない・実態の掴めない感情を抱える心地悪さを知るすべてのひとへの励ましなのかもしれない。少なくとも自分は励まされた。

 

ゴダールの分身をよく演じるベルモンドは弱くてださいけど、主役になりきれない人間は弱くてダサいことたくさんしなきゃかっこよくなんてなれないんだよな。負の要素を持ち合わせつつ、それがあるからこそかっこよくあるのは一番難しいのかもしれない。わたしもがんばろ。

 

海辺のフカフカフカフカ

 

 

海辺のカフカ長くって1,000ページも読んだんだ。お疲れ自分🍣

最近また活字を追ってることについて書いてる雑文なだけで、あまり海辺のカフカはわかりません。でもおもしろかった!最近他にも色々と読んでる。

 

 

 

映画が文字から生まれた抽象を見せつけるものなら、小説はその逆で抽象を文字に還元したものだと思う。映画も小説も好きだけれど、互いに得意不得意・向き不向きの特性がありどちらがいいだの悪いだのはないけれど、やっぱりその媒体でしかできない表現をすることに意義があるし、映画でできることは映画でやるべきだし小説でできることは小説でやればいいんだと思う。映画的表現とは何かということを考えるとき、同じ概念を表現したいとして小説で行う場合と映画で行う場合とアプローチにどう違いがでるかということについて考えると気づけることがあるなーって思ったりする🍣🍣

 

ちなみに海辺のカフカを読んでいるとき、映画を観ている時に抱く感情をこと細かに説明し直されているような気分になった。

 

映画から空間と距離や時間の経過を感じ取るのは簡単だと思う。映像という実体を持ってそれらを見せるのが映画の持つ強みであるし、それこそが映画の正体なのではと思う。偉そうに映画を語りたいわけではなく、映画って場所があってあー時間が流れてるなー。動いてるなー。っていうのをそのままに、切り取られて見せられる出来事(一言でいうならばフィクション)を摩擦を少なく見せられるのが強みだなってことを言いたいのです…。

 

逆に文字からだとそれらの実体としてあるものがすべて受け手の想像に託されるわけで。その想像し自分で構築して出来事を理解していく課程を楽しむことが小説の楽しみであるわけで。小説の方が映画よりも受け手がよっぽど能動的になることを必要とされる。だから本読む人は頭がいいんだろうね。すごい。映画は観てても頭よかならないから自分は頭が悪いんだろうなぁっていつも思う…。つらい。でも、やっぱりフィクションをなるべく受動として享受するのが自分は一番好きで心地いいんだろうなって思う。これはどっちが優れている表現かとかいう話ではなく、好みの問題だと思う。

 

ただ、自分は本を読むのが下手だなと思うのでうまいこと読めるようにコツがつかめるまで頑張ろうと思います。

 

 

自分の考えてることをわざわざこんな形にしているのって無駄な行為だなーって思うけど、やっぱり書くのも読むのも好きだから少しでも文字に関われることを仕事にできたらそれでもう幸せだなー。映像も勿論好きだからそっちも考えてるけど、さささささささやかな夢なんだ〜。おやすみ〜。

 

 

 

 

 

 

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Tumblr(すぺる合ってるかわからん)とかで晒したらなんかそれっぽく見えるんだろうけどめんどくさいからこんなとこでまとめちゃうー。

何が楽しかったかはよく覚えてないけどすごい楽しかったー。

岡田さん脇田吉田かめいとかで行くディズニーもあくつ森永かめいで行くディズニーも大好きー。今回はふたりだったけどそれも楽しかったとりあえずたのしー。次は川田とか連れてきたいのう。 

これからもがんばるぞ〜〜〜〜(^_^)

 

 

君のぜんぜんぜんせ〜〜

 

 

 

君の名は。を見て思ったことを

 

まず、秒速が自分的には苦手な作品で。あんな繊細な部分を見せられてるというのが、なんか、どうも受け入れ難くて。

君の名は。はどうなんだろうと思いつつもとりあえず見に行ってきた。

 

タイトルの入りで明確に物語のはじまりを提示し、それに加えてメインテーマを流すことでもう一度序盤で盛り上がりがあった。

最初の方でオープニングみたいなのあったけど、これがまた見やすい。受け入れやすい。自分たち若年層、言い換えるなら圧倒的テレビ世代に対して見やすい映像。そういう印象を強く受けた。あまりに映画っぽくない。テレビ。でも、やっぱりテレビは見慣れてるから映像として非常に受け入れやすい。上の世代の人たちはどう捉えるんだろうか。気になる。

ただ、そこで安っぽい(といったら本当に失礼…)映像を見せて観客を掴んだあとに少しずつ新海監督の世界に誘われていく。ほぼ無意識のうちに少しずつ。通俗的なものからそれとは相反する作家性・芸術性といった要素を持った映像に入り込まされる。大ヒットしてるエンタメ作品だけれど、確かに作家性がそこにはある。かんじ。

 

君の名は。では登場人物がよくわからない。動機がよくわからない、入り込みきれないとかそういうことを言われているのをよく耳にする。自分もそれは感じはした。特に、入り込みきれないっていうのは。

エンタメという点を差し置いても、登場人物が展開に向かって都合よく動きすぎているような。でも、瀧君と三葉も他のキャラクターたちも親しみやすい。親しみやすいから、なんか応援できる。でも深くは入り込めない。これも登場人物のつくりが大勢の人の心を掴むようなものにされているからなのかな?と感じた。大勢に好感を与える個性なんて、滅多にない。それってすごく難しいことだから。だから、好感はあるけど魅力的ではなかった。

現実の生活でも、いいひとっていいひとなだけでそれ以上語ることないじゃない。欠点だとしても何かあった人の方がおもしろかったりするじゃない。

君の名は。において登場人物が担っていたのは、大勢からの好感と応援したさだと思った。商業(大勢からのウケ)と作家性を両立させるために。

では、作家性又は作り手が商業との兼ね合いの中で絶対に伝えたかったようなテーマはなんだったのかと考えると、男女の巡り合いだと思った。SFに包まれているけれど、巡り会うべき2人が存在し、どんな困難も運命も捻じ曲げてでも結果巡り会う話だと思った。この話で描きたかったのは、そういった出会いの美しさだと思う。その絶対的な運命性を表現することが一番だったのだと。

だから、瀧君も三葉もその運命性に動かされて物語の都合よく動く。のかな。

その美しさを伝えるための物語。大ヒット御礼ということで多くの人に届いてると思う。たぶん。