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駄文の溜まり場

最近なんでもすぐ忘れるので

ゴールデンウィーク映画

 

 

 

 

クレしん最新作

去年に引き続き、ゲストキャラが抱える悲しみに対してそこらへんの映画とは違った形の救済を提示してる。

去年というか、近年はずっとそれが通じてるなと。サボテンは観てないけど。

まず、異質であるもの(今回は宇宙人)を異質として扱わないこと。そこに優しさがあるなと。ロボとーちゃんでも、ラストでロボとーちゃんを同じ存在として認めて勝負するから泣けるんだよね。

何がどうで、どういうやつかというより。例えそれが宇宙人でもロボットであったとしても、そんな事実よりそこにある思いを野原家はいつも拾い上げているんだなと。

 

今回のやつネットではあんま評判よくないけどわたしは好きだったー。

ラストで安易に父と和解しないところがいい。和解できないことは切ないけれど、アニメの中でくらい関係は修復して欲しくはあるけどそれでもああいったラストにしたのは意味があるなと。

家族とわかり合えないなら、他のコミュニティに救いを見出したっていいじゃない。ってことなんだと思う。

家族が認めてくれなくて、他の人が認めてくれるのだったらそっちにいったっていいんじゃないのって。家族映画で家族を否定する(否定とはまたちがうんだけどうまく説明できない、、、。)すごい作品だった。

 

 

 

 

コナン最新作

平次がかっこよかった。最近アクションがすごくて、そのアクションがだいぶシュールでじわじわくるんだよね。でも観てるときはコナンくんかっこいい!平次かっこいい!ってなるのがコナン映画のすごいとこなんだよね。でも、観終わって冷静になるとアレ変だったなとか思ってじわじわくるんだよね。

テンションで乗り切る感じ、それにこっちも乗せられるっていうのは作品愛とシリーズという利点を生かしまくった荒技だなと…。

ただ、あの殺された先生とゲストキャラの紅葉さんの関係とか。先生が抱えてた初恋とかそれが報われなかったこととかもっと掘り下げてもいいんじゃないかと…。

今回は和葉映画だから、ライバルの紅葉さんがあまり目立っちゃダメだったんだろうけどそこでドラマを作れば(一応)作品の軸となる事件に深みができたのにな。

でも、いまのコナン映画にはそういうの必要ないんだろうなっていうのもわかる…。アクション路線もおもしろいし毎回だいすきだけど、今回はもう少し練ればすんごい奥深いコナン映画になるかもしれない要素がたくさんあった気がして、そういう路線になっててもよかったんじゃないかなとか思わされた。

でも平次と和葉と紅葉さんが最高に最高だから結局ひゃくてん〜。

 

次は灰原映画だったら個人的に嬉しい。

 

 

 

 

 

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そこに存在としてあるものの事実など大して重要なものではない。世界は自分が何をどう見たいか、どう見るかに委ねられている。

世界を形成している事実たちの正体とは、多くの人間がそれをどう見たいかによって決められたものでしかない。

 

僕はたまにそれができなくなる。大多数の人が見ているであろうものを同じように見ることができない。それは僕自身の意思と、世界との繋がり合いがどこか歪んでしまっている時に起きる。その時にはどんな距離、時間、空間さえも意味を持たないものになってしまう。たとえそれがイギリスから日本のただの野原までだとしても。

 

確かに僕にはそこにエッフェル塔があるように見えた。しかも、たくさんのだ。僕にそう見えたのならば、それが僕の世界だ。大多数の人には見えないかもしれない。見えないならそれでもいい。けれど、僕は今一度問いたい。本当は何が見えているんだ?と。今日も僕は道化のように着飾りながら、甲高い声を上げる。それが、僕からの世界への問いかけだ。

 

カルテット4話くらい

 

 

 

 

まきさんが席を立っていた時に演奏を弾く振りをしろと告げられていた時のやり取りがすごかった。

泣いちゃうすずめちゃん。俺が断ってくるという家森さん。家森さんが名乗り出るのがまたいい。

 

 

 

 

家森さんは普段は情けないけれど、誰よりも社会的な意味を付随させずに的確に物事を見れる人である。しかも良心を持ってそれを行える人情味溢れる人物だ。それが故に結婚・仕事などの社会を形づくる要素にはめっぽう弱い。彼の魅力の長所と短所は常に表裏になっていて、相反する要素の間にあるのは葛藤であり、矛盾であり、それこそが人間性の正体である。家森さんの人物像はまさにそれだ。

そして、それと間反対にあるのが別府さん。社会を形づくる要素、家族・仕事・役割から物事を見ている。ゴミ当番のエピソードなんかは、彼のそういった思考がよくでている。物事をそういった誰にでもわかる要素でしか見れない人は人並みであり、表現をしても誰かと同じにしかなれない。別府さんがプロになれなかった理由はそこにある。でも、要素に囚われるが故に家森さんのような人よりは具体性と計画性をしっかりと認識しているため社会に出て自分の居場所を見出している。一言でいうなら、現実と向き合っているのが別府さんの長所。そしてこれは家森さんと同じように、相反する要素の間で揺れている。向き合っているが故の長所と向き合いすぎているが故の短所によって別府さんはつくられている。

家森さんと別府さんは間反対の人間で、男性陣のおもしろさはそこだと思う。

 

 

女性陣も同じように、まきさんとすずめちゃんの関係も間反対の要素を含んでいる。だが、まきさんもすずめちゃんの物事の視点・考え方はお互いによく似ている。

例えば、すずめちゃんのお父さんが死んだ時に、すずめちゃんは逃げたがった。すずめちゃんは社会・世間の目に痛めつけられ、そういうものと一線を引いて今まで生きてきた。すずめちゃんがずっと求めていたのは家族という社会を構成する要素の中にいる自分を騙したひどい人間(すずめちゃんのパパ)ではなく、どんな関係性のどこのどいつでもいいから自分を救ってくれるひとの存在であった。すずめちゃんにお父さんから逃げていいと告げ、家族という呪縛から救い出してくれたのがまきさんであり、すずめちゃんに魔女ではなく一人の人間として向き合った初めての存在だった。

前途した家森さんのように、まきさんもすずめちゃんも社会という枠にとらわれずに物事を考える人間だ。このように、カルテットドーナツホールは社会からのはみ出し者で構成されている。社会とうまくやれず、関わり方と役割について疑問を抱き続けてきた者たちで構成された集合体だ。ただ、別府さんだけは3人とは違う。なんとなく好きな時に好きなように暮らす(突然七輪で焼肉始めたり)3人とは違う。別府さんはゴミ出し当番を決め、役割をつくろうとする。カルテットドーナツホール内に対し、社会という仕組みを取り入れようとする。だが、別府さんのこのこうるさい行為がなければ生活は成り立たない。別府さんがいなければゴミはたまり、ゴミ屋敷になり検挙されてしまう。やはり、社会を見ようとしない人間に生活を営む権利は与えられてはいない。

 

話を女性陣の関係性に戻すと、ふたりの間反対の要素は嘘に対しての立場だ。まきさんは夫との唐揚げ事件からもわかるように、嘘に対して敏感である。嘘のない、正直な人間に救いを求めていた。まきさんがすずめちゃんを家族という呪縛から救ったように、まきさんもすずめちゃんという正直で純朴な人間と関わることで救われていたのだ。だが、すずめちゃんは嘘からまきさんと知り合った。まきさんが最も嫌うものをきっかけに出会い、まきさんが求めていたものを与えた。騙すか騙されるかの立場の違いがふたりの間反対である。騙した人間に救われるすずめちゃん、救われた人間に騙されていたまきさん。罪を犯したすずめちゃんをまきさんは許すのか、すずめちゃんは罪をどう償うのか。女性陣ふたりの関係性は許すか、許されるかを含んでいる。

 

騙しつつ、騙されつつ救いあっていたふたりの関係にヒビを与えたのが淀みちゃんこと吉岡里穂演じるアリスちゃんである。わたし自身、このドラマにおけるアリスちゃんはただの綺麗どころだと思っていて、こんな役割を担う人物になるとは思っていなかった。綺麗どころとしてのアリスちゃんのキャラクターはすごく好きで、吉岡里穂もよくあっていた。けれど、新たな役割を与えられた人物像に吉岡里穂の演技・存在が昇華し切れてないと感じてしまい、なんだか残念だった。そりゃ松たか子満島ひかりに囲まれていたら存在は薄れてしまうかもしれないけれど、負けないでいて欲しかったなぁ。でも吉岡里穂好きだから女優さんとしてこれからも応援し続けます。

 

 

そんなわけで来週も楽しみです。毎週が楽しみになるので、好きなドラマがある生活ってすごく素敵だなって日々感じてます。

 

 

 

 

 

いまのお気持ち

 

 

 

桜美林大学に通ってる女の子はこうっていう世間の持つイメージが本当に嫌で、自分とそのイメージって全然ちがってるし、わたしなんかと友達になってくれた大学の人たちだってそうじゃないのに大学外で大学のはなしをした時に友達はこうなんでしょとか勝手に決め付けられることがすごく多くて、その度に悲しい気分になってた。あまり汚い言葉は書きたくないから書かないけど、最低な差別用語を使われることもしょっちゅうあった。その度にわたしバカだから〜とか言って適当に笑って流してたけど、そうするたびに自分の人間性が腐ってくのを感じてた。

高校生の頃に就職しないで大学行く事にして、大学を決めた時の周りの反応からも、好きなことができる環境にいれる反面嫌なことも付き纏い続けるんだろうなってことはある程度わかってたけどそれでもやっぱり悲しいことは悲しかった。

大学で出会った人で心から好きだって言える人だって何人もいるし、落ち着ける環境をつくってくれる人たちもいて穏やかに過ごしてるのになんでそれを何も知らない人から肩書きだけで人も場所もやってることも否定されなきゃいけないんだろうって思うとなんだかやりきれなかった。どうでもいい人から何か言われるのは心の底からどうでもいいだけなんだけど、今まで仲よかった人から何気なく言われてたりした時には正直だいぶ心にきた。

だから保身の為に、嫌な思いをすることがないように大学の話は自然とあまりしなくなった。自分がどんな生活をしてる何者なのかを伝えられないと、あらゆる人とまず仲良くすらなれないしぜんっぜん心も開けないし、そうすると好きになることも嫌いになることもできなかった。この人は大丈夫だろうなって人にしか大学であった嬉しいことも嫌なことも共有できなくて、それ以外の人とはどうでもいい会話の仕方しかしなくなった。

こんな感じにどんどん卑屈になっていってたんだけど、やっぱり大学でやってることは自分で選んだことだからすごく楽しくて。今日はフィルムを切って貼って繋げてました。たいしたことない作業だけどなんかすごく楽しくて周りの人とくだらないことでゲラゲラ笑ったりしてわたしの生活なんだかすごくいいんだよってことを少しずつでも伝えることができるようになりたいなって最近やっと思い始めた。

否定されるのは怖いし、変な制度の変な学科で周りにいるのも変ですごくおもしろい人たちばっかだから一から説明するのはめんどくさいけど、それでも話せるようになりたい。きっかけは特にないような、あるようなって感じなんだけど、わたしなんかによくしてくれる人、しゃべってくれる人たちのおかげで大学でのことは自分のことを伝える時に切っても切り離せないような存在になったんだと思う。

 

長々と恥ずかしい文章書いたんで寝ます。さんねんせいになってもたぶんがんばってます。

 

 

 

総括

 

 

 

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知らないひとからなんか言われたり気持ちわるい思いもたくさんしたけど、それ以上に素敵な人たちともっともっと仲良くなれたよき一年でした。当たり前にやってたことができなくなったのは悲しいことだったけども。

 

そしてそして、歳上の方にお世話になることが多かったいちねんでした。高校の頃からバイトしてたせいで歳上のお友達は多かったんだけども、ちゃんとした?歳上歳下の関係を築くことの大切さがわかりましたかもですたぶん。

 

あと同じバイトが続いたのが驚き。自分でも絶対すぐやめると思ってたー。

 

たいしたことないこそいちばん偉大だから今年もがんばります。

 

 

 

てん

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こうやってみるとそんな見てないなぁ。クレしんユメミーワールド入れ忘れたけど訂正するのめんどくさいからそのままに。

でも、順位を付けるとか好きな映画10本選ぶとかやっぱ苦手。まぁ話のタネになるがよい〜〜🐰🐰🐰🐰

アピチャッポン

 

 

 

アピチャッポンの映画を観てきた。

精神と身体、現実と空想、フィクションであることとノンフィクションであること。その他にも対局だとみなされ別離されたものであるとされるものたち。

普段自分たちが言葉で区分し明確に別物であると考えているものの境界の狭間に立たされる感覚の心地悪さと不安を味わうことができた。

映画の中の主題としてそういうものを扱っていると同時に、それを映画と観客という三次元の領域でも両者にある境界というものを揺らそうとしてくる。ジェーンおばさんのそこらへんのおばさん感(おばさんと呼ばれるものの存在は違う国のおばさんでも身近に感じる。おばさんとは万国共通な安心感を持ったものを指すのかもしれない)や怪我をした主要の登場人物(能動性を制限されているという点では映画の観客と通じるものは大きい)やらなんやらの挙げてたらキリがないほどの不思議な意味を持ってそうな、はたまた持ってなさそうなモチーフのおかげでいつの間にか映画と一体にさせられてしまう。

 

この感覚はとっても気持ち悪いので是非見て欲しいなぁとしか言えないやぁぁ。